・・・、
可愛い奴め”…。
普段、利通さんは冗談でもそんなことは言わない。
祝言まではいつも通りに感じたけど…。
何かおかしい…。いくら最近利通さんが優しくなったとはいえ、こんな感じじゃない。

…、まさか利通さんじゃないとか⁉
思わず、まじまじと利通さんの顔を見るけど、
やっぱりいつも端正な顔がそこにある。
…心なしか、顔が紅いのは気のせい?

「何だ、そんなに近付いて…。口吸いが欲しいのか?」
…‼やっぱり何か違う!
彼の目にかかった前髪を軽く退けて、おでこを触る…あっつい‼
きっと怪我で抵抗力が下がっているからだと思うけど…、大分熱い。

私は布団を出て、スクバの中に手を突っ込んだ。
…体温計、確か合宿で必要だったんだよね。
暫くガサゴソしていると、細長い物が指に触れる。

「…あった、体温計。」
急いでケースから取り出して利通さんの隣に座る。
「利通さん、これを脇に挟んで下さい。」
「何だ、この棒は…。やけに艶があるな。」
艶って…。表現まで変な感じ。
「体温を測る為のものなんです。利通さん、高い熱がありますよ!」
無理やり脇に挟ませると、利通さんの着物が乱れてしまう。

…! 熱に犯されて、とろんとした瞳をしている利通さんがこちらをじっと見ている。
体調の悪さからか、やけに瞳が潤んでいる。
何だか、妙な色気があって…直視出来ない。

「何だ小娘、私に抱いてもらいたいのか?」
・・・そんな恥ずかしい言葉を遮るように、ピピ…ピピ…
と計測結果を知らせる音がした。
自分を呼び戻すように体温計を見ると…。

39.7

さっ、さんじゅうくど…!
って言うか、ほぼ40℃。
今まで、40℃なんて体験したことがないから分からないけど…。
本人はかなり辛いはずだから、休ませないと大変…。

「利通さんっ、氷持ってきますから寝ててくださいね。」
その私の声と共に、利通さんは倒れた。
「利通さんっ‼」
「…ッ。」
凄く辛そう。早く行かなきゃ。…その時、利通さんが手首を掴む。


…行くな、小娘。

いつもの強い瞳に、圧倒されてしまう。
「でも、良くなりませんよ…。」
「…、構わない。」なっ、“構わない”って…。
「お前が傍にいれば、何れ治るだろう。」
何も言えなくなりそうな自分を奮い立たせて、利通さんの手を離す。
「すぐ戻って来ますから。持ってくるだけですよ。」
そう言って私は部屋を出た。


私が急いで氷袋を用意していると、よほど忙しさが目立っていたのか…
桂さんが心配そうに私を覗いている。

「…大丈夫かい?」
「はっ、はい!大丈夫れす‼」
あれ…なんか、前も同じ局面があった気がする...。
「…ふふっ。」桂さん、笑ってるよ!
「全く君は…。確かこの時代に来てすぐの時も“大丈夫れす”と言っていたね。」
うわっ、覚えてたんだ…あんまり蒸し返さないでほしいな。
「か、桂さん!言わないでください‼恥ずかしいです…。」
必死に弁解する私を他所に、桂さんは和やかに微笑んでいる。

「…と、君はどうして氷袋を用意しているんだい?」
ふと、手に取った氷袋に目をやる。

あっ、利通さんに持っていかなきゃ。
「あのっ、利通…大久保さん熱があるんです!39℃もあって…。」
「…無理して呼び名を変えなくても構わない。
さんじゅうくど…とはよく分からないが、兎に角大久保さんに熱があるんだね?」
「…ッ。そうなんです。多分怪我からだと思うんですけど、凄く辛そうで…」
利通さんの辛そうな息遣いが耳に残ってる。早く、行かなきゃ。

「そうか…多分彼のことだ。其れ程やわではないと思うが、熱は辛いから…。
私も可能な限り手伝うが、今日中には晋作と藩邸に戻らなければならない。
きっと、我々よりも大久保さんの事を知り尽くしている、君が看病してくれるかい?」

当たり前だよ…、私が利通さんに怪我をさせてしまったんだから…。
「勿論です。」私はそう答えると、足早に利通さんの部屋へ向かった。


静かに戸を叩いて、部屋に入る。
「...利通さん、失礼します。」
そっと利通さんの顔を覗くと、少し荒い寝息を立てて眠っていた。
利通さんの前髪を退けて、もう一度額に手を当ててみる。
やっぱり、凄く熱い。
手に持っている氷袋が温まってしまう前に、利通さんの額に乗せる。
胸元まで被っている毛布をお腹の辺りまで下げる。
あんまり被っていると、息が苦しいと思うから...。

・・・

...?あれ、私...。
あっ、利通さんの部屋に来たまま眠っちゃっていたんだ...。

ふと、利通さんの方を見ると、足元が覚束ない様子でふらりと立ち上がっていた。

「利通さんっ、まだ横になっていて下さい!」
「...雪隠。」
「へ?」
「雪隠へ行くと言っているんだ...。」
まだ荒い息で、トイレへ向かおうとする利通さん。
ふらっ...と倒れそうになる利通さんを支える。

「私もお伴しますから...。」
「何を、言っている...?雪隠へくらい一人で動けるできる。」
「だってこんなにフラフラじゃないですか!」
「・・・。」
「まだ、こんなに熱があるんですよ。外で、待っていますから。」

何とか利通さんを説得させて、トイレの入り口まで付いていく。
「...入ってくるなよ。」
「入りませんよっ!」利通さんは"ふっ"と鼻で笑うと、中へ入って行った。

...次の瞬間、利通さんが苦しそうに呻く声が聞こえた。

「...利通さん?」
「うっ、...ッ!」
「利通さんっ!」
「五月蝿い...喚くな小娘。少しばかり、気分が悪いだけだ。」
また、苦しそうな利通さんの声が聞こえる。

「ッ、小娘...風呂を沸かしておけ。」
中から聞こえてくる利通さんの声に答えると、私はすぐさまお風呂を焚きに行った。


準備をして利通さんの元へ戻ると、真っ青な顔をした利通さんが、
ふらふらと左右に揺れながら中から出てきた。

「利通さんッ!」
私が駆け寄ろうとすると、利通さんはまた口を押さえて跪いてしまう。

「利通さん、お湯、焚けました。行けますか...?」
利通さんは静かに"ああ"と頷くのを確認して、
私はゆっくりと利通さんを立たせて風呂場まで連れて行く。

---
----
-----
「…上がったぞ小娘。」
ふらつきながらもお風呂へ入った利通さんが、落ち着いた声で私を呼ぶ。

...少し良くなったかな。そんな事を考えながら私は利通さんに着物を持って行く。

「利通さん、大丈夫ですか?」
「ああ、先刻よりは大分良い。」
そう答える利通さんは、少し顔色が戻っているように感じた。

「...やはりこの布は心地良いな。」

そう言いつつ、整った綺麗な髪の毛を軽く拭いている利通さん。
"この布"...とは私が合宿に持っていくはずだったタオル。
沢山汗をかくかと思ったから、大きめのを持っていた。
...丁度利通さんの身体の大きさと合っているみたい。
この時代には無い感触らしくて、利通さんは結構気に入っている。

「お風呂入ったばっかですけど、一応熱測ってみましょうか。」
「ああ、またあの艶棒か。」
また艶棒って言った…。何か聞いていると恥ずかしくなる。
「あの…それ体温計って言うんです。艶棒ではない…と思います。」
「何でも良いだろう。」
そう言って利通さんは体温計を脇に挟んだ。

……
………
38.5

38℃ちょっとか…、少し下がったかな。でもまだ高いや。

「利通さん、少し下がりましたけどまだ高いです。
明日も一日寝ていた方が良いと思います。」
すると今まで黙っていた利通さんが急に私を呼ぶ。

「おい、小娘。勿論、反省しているなら今日は、お前も此処で寝るのだろうな。」
ぐいっと身体を引き寄せられる。熱のせいか、利通さんの身体はいつもより温かい。
何だか心地良い温かさで眠たくなってきちゃった。
ふ…と利通さんの顔を見ると、利通さんも目が少しとろんとしていて眠たそう…。

「「小娘 利通さん」」
二人の声が、重なる。
「「……。」」
二人、何も言わずにいるけれど、私達の間には穏やかな雰囲気が流れている気がした。

今だけは、このままで…。
私は利通さんを一度見上げると、利通さんは、優しく私の頭を撫でてくれた。

「…こんなにも小さな頭で、一体なにを考えているのやら。」
「利通さんのことです。」
無意識の内に、答えてしまっていた。
…利通さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、次の瞬間には優しい微笑みに変わっていた。

「私も、お前のことを考えている。」
そう言うと、利通さんは自分の布団に私を手招きする。
私は、利通さんの居る布団の中に入る。
…温かい。
利通さんの温もりを直接感じることが出来て私、幸せだな…
私は利通さんの優しい温度の中、静かに瞼を閉じた…。
きっと良い夢が見れるはず。夢に利通さん、出てくるかなぁ…。



二ヶ月後、体調もすっかり回復し怪我も順調に治ってきた利通さん。

「…お前が看病していれば、何れ治ると言っただろう。」

得意気に言う利通さんだけど、この二ヶ月間、本当に不安で怖かった。
いつ傷口から感染病に罹るか分からないし、そんな薬も無いから…。
少し微熱が続いたけれど、なるべくお風呂にも入ってもらった。
毎日利通さんの隣に居られるのは嬉しかったけど…。
もう二度と経験したくないくらい、不安で仕方なかった。

利通さんが序々に回復してきた一ヶ月くらい前から、
今度は私の体調が優れない。
大好きだったご飯にもあまり食欲が湧かないし、
何よりお米の炊く匂いで気分が悪くなる。
一つ、思い当たる節がある…。
…なるべく利通さんには迷惑掛けたくないんだけどな。

「おい、小娘。」
そんな事が頭の中をぐるぐるしていると、不意に利通さんに名前を呼ばれる…。
「何を辛気臭そうな顔をしているんだ~… 」
あ…れ。利通さんが何か言っているけれど、
よく意味が分からない。頭がくらくらする。
利通…さん?

その瞬間、目眩の様に目の前が急に真っ暗になった。
…身体を起こそうとするけど、全く力が入らない。

「…小娘!」
利通さんが私の名前を呼ぶ。思うように声が出せない。
怖い、どうしたらいいの…?


-薩摩藩・大久保利通-

最近...いや、私の看病をして以来、
何処か上の空の小娘に苛つきを覚えていた。
何故、何も話そうとしないのか?
・・・いや、小娘だ。
自身でも理由が分かっていないのかもしれない。

とはいえ自覚の無い小娘をこのまま放っておくのも勿体無い。
...飽きの来ない、滑稽な反応を見たい。

そんな小さな欲望を小娘にぶつけてみる。

「何を辛気臭そうな顔をしているんだ、大体軽羹はどうなった...?」
私が言葉をかけると、小娘は焦点の合わぬ様子で私を暫く見つめ、
突然、舞っている蝶が落ちるかの様に畳に伏せた。

「...小娘!」
小娘に駆け寄ると、青冷めた顔をして冷や汗を掻いている。
「半次郎!!」私は半次郎を呼ぶと意識の失った小娘を見せ、医者を呼ばせた。

・・・

「小娘の容態はどうなんだ?」
医者が診ている様子に少し苛立ち、自然と言葉までも強くなってしまう。
小娘の事だ、死ぬことは無いと思うが、少しばかり働き過ぎる面がある。
疲れが溜まっているのではないか。
私が怪我さえしなければ、倒れる事も無かったのだろう。
少し罪悪感を感じつつも、先程よりも額の汗が引いた小娘を眺める。

「おい、どうなっているん...「ご懐妊です」」
「...すまない、もう一度言ってもらえるか?」

「奥方様はご懐妊です。おめでとうございます、大久保様。」
・・・。
「いや待て、こいつの腹の子がどうして私の子だと分かる?」

私も動揺しているのだろう。意味の分からぬ質問をしてしまう。
...すると医者は少し戸惑った表情をする。

「...実は、予てから奥方様からご相談を頂いておりまして...。
ご本人はあまり自覚のないようでしたが。」
「何だと?」
「大久保様には言うなと口止めされていたのですが、
奥方様の症状や最後の閨事の時期から考えますと...。」
「...。」
「お子さんの方は順調だと思われます。」
「ああ、そうか...。」
「...では、そろそろ失礼致します。」
「...ああ、すまなかったな。」

医者が出て行ったのを見届けると、それと同時に半次郎が入ってきた。

「大久保さあ、娘さんは...如何でしたか。」
「...。」
「...大久保さあ?」
「...私の子供がいるらしい。」
・・・。

「...ああっ、それはおめでとうございもす!!」
"早速宴の準備を。"と一礼して半次郎は出て行った。

私と、小娘の子が...?こいつの小さな身体の中に、居るというのか?

「くっ、あっはははははっ!!」底尽きない笑いが込み上げてくる。
横になっている小娘を抱き上げ、口付けをする。

「...利通、さん?」
ぼんやりとした様子で目を覚ました小娘はまだ事を知らぬようだ。

「でかした、でかしたな小娘!!」力いっぱい、小娘を抱きしめる。
こんなにも感情が湧き立つ事が、今までにあっただろうか。
「えっ、利通さん...?」
「何だ、まだ分かっていないのか?」
「...もしかして...?」
「...恐らく、そのもしかしてであろうな。」
普段なら勘の悪い小娘が、今日に限って目を輝かせ私を見つめていた。

「利通さんッ!!!」
その瞬間私の名を呼ぶと共に、私の力に負けぬくらいの強さで、私を抱きしめ返す。
先刻までぐったりとしていた蝶が、花の蜜を吸ったかの様に元気を取り戻した。

「...今まで以上に大切に扱ってやる。だが、その前に祝言を挙げる。覚悟しておけ。」
大粒の涙を流し、こくりと大きく頷く小娘を再び床へ戻し、咳払いをする。

「とにかく、今後は絶対安静だ。軽羹は坂本君にでも手土産とさせれば良い。」
「はいっ!」
「分かったら、大人しく寝ていろ。私は夕餉に行く。」---その瞬間、誰かの腹の声がした。
「あの...お腹空いたんですけど...。」
今まで、あんなにも食欲が無かったのに子が居ると分かった途端にこれか。

私は態と大きめの溜息をつき、小娘を抱き寄せる。
「私が、お前に食べさせてやる。子が居ると調子に乗られては困るからな。」
耳元でそう囁くと、小娘はいつも通り顔を紅潮させ、小さくこくりと頷いた。

「やけに素直だな、小娘。」
「だって、もう利通さんには逆らえないもん。」
「...どういう意味だか。」
意味深な言葉を不思議に感じつつも、幸せそうに"ふふっ"と笑う小娘を見て、
先程までの私の苛立ちは穏やかな感情へ、渓流のように変わっていった。
まさか、自分にこんな日が来るなんて思いもしなかった。

...ふと自分の過去を思い出す。
二度と思い出したくない、過去達を。
---
----
-----
私の家は下級藩士であった。
当時住み所にしていた加治屋町で西郷達と共に勉学に励んでいた。
...その様な面では群を抜いていた私だが、生活は決して楽なものではなかった。

いや、非常に苦痛であった。元に下級藩士の為仕方がないが、
父が関与したある事件により更に苦痛は増えていった。

そんな貧乏な生活に反比例したような現在の生活は、
正直言って私には合わないのかもしれん。

だが、合致しない現在の生活のお陰で小娘と出会い、
愛を誓い、子にまで恵まれた。
...私は、きっと幸せ者なのであろう。

まだ見ぬ我が子を想い描きながら、私は今まで誰にも話した事の無かった
自身の過去を、小娘には話す事にした。

子を宿している母にとっては少しばかり辛い話だったかもしれないが、知っておいてもらいたい。
そのお陰で、今の穏やかな感情を保てているのだと思うのだ。

「利通さん...、私と、この子がいますから。...もう、一人じゃないから。」
自分の腹を擦りながら私に優しく微笑みかける小娘を見て、
今までの過去も悪くなかったと思うことが出来た。
「お前も、一人ではない。こいつと、私がいる。」
同じような事を、小娘の腹を指差しながら言う。
大きな真珠が零れるように、涙を流す小娘の姿は目に焼き付けておきたくなるくらい美しいものであった。

・・・
・・・・
・・・・・

…季節は巡り、また夏がやって来る。

「ッ…はぁっ、はぁっ。」
出産が近い小娘は、隣で手を強く握る私を蕩けるような目で見つめていた。
「…小娘、手が冷えているが、平気か?」
…平気な訳がない、と分かっている筈なのにつまらない事を聞いてしまう己が憎い。
「利通さんの、手が温かいですから…」
そう言って力なく微笑む小娘を見て、己の弱さに耐え切れなくなった。

「…少し、夜風に当たってくる。」
そう言って私は部屋を出る。小娘の方へは、振り返らなかった。

「はあ…。」

溜息をつきたいのは、本当は小娘なのだろう。
文句も言わず、嘆くこともなく。
ただ一向男が経験する事の無い痛みに幾度と無く耐えているのだ。
虫と蛙の合唱が聴こえる。彼らの世界でも雌の取り合いで必死なのだろう。

…今まで、女にだけは不自由無く生活してきたが、
こんな経験した事のない不安に襲われるのは小娘と過ごして初めてだ。

…“頑張れ”だなんて、軽々しい言葉は掛けたくない。
充分過ぎる位まで、小娘は頑張ってきた。
今更、言わなくとも分かっていると思う。…どうか伝わっていて欲しい。
気遣う言葉を掛けられない私を、小娘は冷たい人間だと思っているのだろうか。

私は怖い。
初めて小娘を失うかもしれないという恐怖。
また子が産まれる事で私と小娘の間に、何か取り戻すことの出来ない
溝が出来てしまうのではないかと不安。
…先程も意味の無い言葉を羅列し、平静を装おうとしていた。
小娘の様な強さ。
私には真似出来ず、一生を懸けても手に入らないものなのであろう。

空に一つ、流星が流れる。この美しい空はいつかの逢瀬の後、小娘と眺めた空に似ていた。

時を忘れ、暫く空を見上げていると半次郎が血相を変えて飛び込んで来た。

「大久保さあっ‼」
一瞬で、悟った。本格的な出産が始まったのだろう。
「…今、向かう!」
少し崩れた着物を直し、小娘の待っている部屋へ向かう。

ふと、藩門に目をやると半次郎が知らせたのか、
坂本君ら一脈が来ていた。
「おっ、大久保さん!わしらおんしの子が産まれると聞いて走ってきたんじゃ‼」

…全く、この“タイミング”でか。
「入るならさっさと入れ。いつまでも立ち話が出来る程、私も暇ではない。」
一刻も早く小娘の元へ向いたい衝動を抑えつつ、坂本君達を大部屋へと案内する。
…坂本君達だけだと思いきや、高杉君や桂君も来ていたのか。
全く遠慮の無い連中だ。
大部屋が近付くに連れ、小娘の辛そうな声も近くなる。

「姉さん…。」
「小娘さん、難産なのかもしれないね…。」

“難産”という言葉に耳が反応する。
私の妹が産まれる際も、同じく難産であったからだ。
母親は悲鳴をあげていた。耳に残るその声を、私は今体験している。
彼等を部屋へと案内すると、私は小娘の居る部屋へと足早に向かった。
部屋の戸をがらりと開き、小娘の名を呼ぶ。

「小娘‼」
…小娘の悲鳴の中、微かに“利通さん…”と私の名を呼ぶ声が聞こえる。
もう一度名を呼び、駆け寄ろうとしたその瞬間。
「来るんじゃないよ!今男に出来る事は何も無いんだ。
大久保様と言えども、何も出来やしない!」
「なっ…!」
助産婦はそう言うと、“さあ出て行け”と
言わんばかりに私に向かい、手をひらつかせた。

・・・

「小娘!!」...利通さん?
薄く瞼を開いた私の目には長い着物を着た、
髪の長い男性の影が映る。やっぱり、利通さんだ。
"利通さん..."と彼を呼ぶけれど、
激しい痛みと薄れゆく意識のせいか声が擦れてしまう。

じっと利通さんの方を見ているけれど...。
何だか妙な眠気に襲われて、うっかり目を閉じてしまいそうになる。
「寝たらいけないよ!」
耳元で、助産婦さんの声が響く。

「あんたが頑張らないと、この子は待ちわびていた父や母の顔を見る事すら出来ないんだよ。」

...そっか。今、私が頑張らなきゃいけない時なんだ。
力の限り、尽くさなきゃ...。この子にも、利通さんの為にも。

すると、もう一度助産婦さんの声が響く。
「さぁ大久保さん、出てお行き。いくらあんたでも今出来る事はないよ!」
...と払い除ける様に利通さんに手を振る。

ふと、利通さんを見上げると、一瞬驚いた顔をしていたけれど、
一つ諦めたように軽い溜息をつくと部屋から出て行った。
..."利通さん"って、もう一度だけ呼びたかったなぁ。

「大丈夫、あんたの亭主は傍にいるから!あんたは安心して産みなさい。」
その言葉に、私はやっとの事で声を振り絞り"はいっ!"と返事をすると、
再び意識を高めた。もう少し、待っていて。
私の、私達の赤ちゃん、利通さん...私、頑張るから。
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