目の前の木戸君がコホリと一つ、

乾いた咳をする。


...彼の病は、止まることなく進行しているらしい。



私の傍に正座をしている一匹の猫は、

木戸君を案ずるように彼の顔を覗き込む。


木戸君は慈しむように微笑みながら猫を撫でると、

再び口元にシルクを当て顔を歪めた。




「木戸君、君の其れは---」


「...ええ。」



...途中まで言いかけた私の言葉から全てを悟るように

短い返事が帰ってくる。





「...もう、治らぬのか。」


「さあ、どうでしょう...。」


「己の身体の事であろう!」



木戸君のその言葉に堪らず声を荒げると、

今度は木戸君の傍に座り込んでいた猫が

逃げるように机の下へ潜り込んだ。


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「...すまない。」


「私こそ申し訳ない。だが大久保さん、
私は時代に身を任せることにした。」


「時代に、か...。」


「ええ。自らの手で創ってきたものですから。」


「成程。」




...彼の言う事も、一理ある。


事実今日の政府は諸国の流れに翻弄され、
急ぎ過ぎた部分が多々ある。

---だが、そんな日本国を...

政府を誰よりも愛し奔走してきたのは木戸君に違いない。



"自らの手で創ってきたもの"



確かに、その通りかもしれぬ。

彼らしい...全く木戸君らしい言葉だ。





「だが---」



やはり現状の政府から彼を失うのは惜しい。

組織だけではない。


それは、私にとっても同様に---





「何か...独逸辺りに特効薬でも無いのだろうか。」


「特効薬、ですか...。」


怪訝そうな表情で木戸君は復唱する。


...すると突然、彼は窓越しに空を見つめ、

一人静かに微笑んだ。


東雲の空1



「もう一度、あの娘さんの淹れた茶を頂きたい。」



...
....
.....


"あの娘"


...久々に聞いた其の名と同時に、

最後に見せた笑顔を思い出す。



何百年も先を生きるあの娘と、

私は恋仲にあった---




「木戸君、その願いはもう叶わぬ…。」


…木戸君は私の言葉に頷き、

すっかり疲れきった表情を隠すように笑った。


「彼女の茶なら、病も一瞬で消えてしまうだろうね。」

「…笑えぬ冗談を言うものではない。」



…木戸君の本心は私には見えぬが、

その素顔はきっと、蜉蝣のように儚いのであろう。


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「…君も分かっているように、今後も反乱は激化する。
ましてや今も、戦乱の真っ只中だ。」

「心得ています。」

「なので木戸君、---まだ早い。」



“分かっている”

と、強い瞳で頷いた木戸君は邸を去って行った---




強く差し掛かる陽の中、

ふと足元に目をやると先刻まで机の下へ逃げ込んでいた猫が

様子を伺うように顔を出している。




「…来い。」



---そっと猫を抱き上げると

暫く彼が去った扉を見つめた後、

甘えるように私の胸に顔を埋めた。


静まり返った部屋には、

座椅子が上下に揺れる音と、

時折猫の鳴く声だけが、ただ響く。



…窓越しから聴こえてくる手風琴の旋律は、

まるで時の速さを私に突きつけているようであった。




また、猫が鳴く。


利通さん。


猫の声と、小娘の声が重なった時、


私に、小娘の淹れた玉露の味が沁みた。

苦くも甘いその味は、短過ぎたあの日々達其の物。



今思えば、あの時代も…


「悪くはあるまい---」


.....
....
...
..
.


また一人、共に過ごし戦った同志が消えていく。

それを実感すると、私はもう一度小娘を想う。



---この憶いと、

あの日々の記憶だけは、

私をあの日へ…あの日の自分へと戻してくれる。


思い出は、褪せぬ。




思い出…?


…“思い出”ではない。

未来なのかもしれぬ。



お前は私に、未来を残していった。


決して途切れる事なく、

永遠に続いていく確かなものを---



瞳を閉じると、直ぐに眠気に襲われた。

…其れに身を任せ、力を抜く。



薄れゆく意識の中、

確かにまだ、お前の声が響くのだ。



にゃあっ---




私の膝で顔を覗かせる猫が、

一度だけ鳴いた気がした---


東雲の空2
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