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ぽつぽつ...と控えめだった雨音は時が経つに連れ、
ザー...と激しさを増していった。

「今日は、雨か。」
閉まった障子を開き、外を見てみる。
朝方にも関わらず、雨は今にも雪に変わりそうなくらい、
厚い雲が覆いどんよりと重たい空だった。そんな気候のせいだろうか。
昨夜、自棄になって飲んだ酒のせいだろうか。
頭がずきずきと痛む。


「・・・っ、た けちさん。」

背後から、聞き覚えのある、透き通った声がする。
まさかと思い、後ろを振り返ると涙を流しながら僕を見つめる娘さん。

「娘さんっ!」
駆け寄って彼女の傍に寄る。
娘さんは血色の良くない、白い顔で僕の名前を呼ぶ。

「た、武市さん、怪我は、ありません...でしたか?」

僕に向けて放たれた第一声に、唖然とする。
自分がこんなにも崩れそうな状態と時に、相手を事を想っていられるか?
いくら自分の大事な人間であろうと、僕には、それが出来るでだろうか。


「ああ、僕は無事だ。君が守ってくれたからね。」
必死に、零れそうな涙を堪えながら、僕は彼女に無事を伝える。

「...た、けちさん、無事だったんですね...。
武市さんを助けられて...良かった。」
そう言って、いつもの、僕の大好きな笑顔で笑おうとする。
だが...身体全身の痛みに、微笑みかけたとたん、その笑顔は崩れしまう。

「ッ...!」
顔を歪め、腹を押さえる。
咄嗟に掛け布団をはがし、娘さんの着物を見ると、まだ血が滲んでいた。

「っ、娘さん!」
思わず彼女を抱き抱えようとする。
「あっ、た、武市さん、だい、じょうぶです。このままで...。」

彼女にそう言われ、抱きかけたその身体を床に戻す。
「...っ。はぁ、・・・はぁっ。」呼吸が、激しく荒い。

「た、けちさん。き、っとこんな怪我なんて、すぐに、治りますよ...。
だから、もう少しだけ、この、ままで...。もう、少しだけ、眠らせてください...。」
僕の手を握りながら、彼女はまた眠りにつこうとする。
「武市さ、んっ、温かいですね...。」
そう言って僕の手を握る力を強くする。

僕も、彼女に応え、少しだけ力を込める。
自然と規則正しい寝息を立てる君を見つめて、僕は"日常"の幸せを噛みしめた。

娘さんが今こうして、ここにいる事は必然ではなくて、
これはきっと天が僕に、日々命の奪い合いをしている僕達を哀れに思い、
恵んでくれた奇跡なのだろう。

娘さんが寝付いたのを機に、僕は彼女の手を一度離し、
彼女の温もりが残る手で残っていた書物を書き始めた。


"温かいですね"

そう言った君は、もう二度と目を覚ますことはなかった。

・・・
・・・・
・・・・・

何だか、廊下が妙に騒がしい。

娘さんが眠る隣の部屋で書物を書き続ける僕に、
中岡がもの凄い剣幕で部屋に飛び込んできた。

「武市さんっ!!姉さん、姉さんがっ!!!」

一瞬で事を悟り、娘さんの部屋へ駆けつけた。

そこには、高杉さんと桂さんが目を伏せている。
そして、無残にも昨夜の医者が、彼女の美しく繊細な顔を隠すように白い布をかけていた。

あまりにも非現実な光景に立ち尽くす僕よりも先に声をあげたのは、
深手を負った身体に鞭を打ち、娘さんの隣に座る龍馬だった。

「・・・武市、この子を抱きしめてやれ。おんしに出来るのはそれだけじゃき。
わしに、そげな事する資格はない。武市、お前だけじゃ。」

僕は、龍馬の強い瞳に思わず目を外らしてしまう。

「目を外らすな武市。こん子は、娘さんは、
最期までお前のことを気に掛けていたんじゃぞ!」

---龍馬の目からは涙が溢れていた。
気がつけば、僕の目からも涙がとめど無く溢れている。


いつも笑顔で僕に接してくれた娘さん。
固く閉ざした心を、遠い過去に消し去ったはずの感情を柔らかく癒してくれた。
君の笑顔と声だけが、僕の救いだった。
時代から見離され、一人孤独で不安なはずなのに、
常に僕に、僕達に癒しと笑いを与えてくれた。

周りからも、啜り泣く声が聞こえる。彼女を囲む全員、
少なからず娘さんから幸せを貰っていたのだろう。

耐えきれず、僕は娘さんを強く抱きしめた。
伝えきれずに、心の片隅に溜まっていた感情が溢れ出てくる。
もっと、素直に気持を伝えていれば。
もっと、彼女のことを抱きしめていたら。

もっと、君と笑いあえたら。

僕の激しい後悔は、少しでも和らいでいたのだろうか。

・・・

「武市、もう離れろ…。いくら泣いても面白娘は還ってこない。」

高杉さんが僕に何か言うが、僕の耳には、何も入ってこない。
子供のように泣きじゃくった僕は、もう何もなかった。
心が空蝉のようになっていく。

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-土佐藩・坂本龍馬-

あれから、また寺田屋での4人の生活が始まった。
娘さんの存在は嘘じゃったかのように、忙しい毎日が続いてゆく。
武市もいくらか落ち着いたようじゃ。娘さんが来る前のように、ただ淡々と仕事をこなしちょる。

じゃが、ちくと笑顔が減った…
いや、以前の武市に戻っただけなのじゃろう。
娘さんが来てからというもの武市は勿論わしらも、あの大久保さんまでよく笑うようになっちょった。

そんな生活に慣れていたせいか、
今の暮らしは何だか窮屈に感じる。

そして一つ、気にかかる事がある。
・・・わしと武市の意見の食い違いによる喧嘩じゃ。
今までは互いの胸倉を掴み合い、
以蔵や中岡が止めるまで、ずっと睨み合っちょったが...。
娘さんが天女様になってからは、何かを思い出したかのように"すまない"と力なく、
わしの胸倉から手を離して部屋へ戻ってゆく。

きっと、もう二度とあん娘がおった頃の武市が戻ってくることはないのじゃろう。
が、少しでも元に戻ってほしいというわし等の願いから、
武市の誕生日と称し祝い事をする事になった。武市への誘いは以蔵に頼んだ。
武市も最初こそ拒んでいたが、半ば強制的に開催することにしちゅう。

以蔵もわし等と同じように、空蝉のようになった武市を見てはいられないのじゃ。


-土佐藩・岡田以蔵-

「何の真似だ、以蔵。」
先生は冷たい瞳で俺に言い放つ。

「先生も察する通り、貴方様の誕生会ですが。何か問題がありますでしょうか。」
先生に負けじと、俺も強めに言う。先生には悪いが、俺はもう耐えられない。

「以蔵、お前はいつからそんな口を利くようになった?」
あいつが来る前のような冷めた瞳。
もう、何も失うものが無いとでも思っているのだろうか。

「先生、失礼ですが俺も龍馬達も貴方のそんな姿はもう御免です。
あいつの事は重々承知しますが、それ以前に今まで、沢山の仲間達の血を見てきました。
彼女の存在も確かに絶大だった。ですが、
今まで犠牲になってきた仲間を考えると、俺は…分からなくなります。」

「以蔵如きに、何が分かる?」

こんな言われ様は久しい。が…先生から焦りが伝わってくる。
きっと先生だって分かっているはずだ。
今後の事を考えれば、まず、変わらなければならぬ事を、
あいつの存在を封印しなければならぬ事を。

「…龍馬達が先生を待っておられます。御先に失礼致します。」
そう言って静まりかえった部屋を後にする。

結局、先生の心を突き動かすのはあいつの存在だけなのだろうか。
少し、複雑な気持になる。

…そういえば。

俺は以前あいつとの会話を思い出し、
足早にあいつが使っていた部屋に向かった。

・・・

つい、この間までこの部屋で生活していただけあって、
まだあいつの匂いや雰囲気が抜けない。
部屋も、あの日のまま何も変わっていない。

恐らく、整理をした方が良いのだろうが、気が進まずにいる。
"封印しなければならない"という葛藤が俺の中にもある。
先生と同じように、自身が一番分かっているはずなのに。

・・・確か、この棚だったな。
あいつが先生の誕生日に渡すと言っていたものがあるのは。

その日は、あいつ部屋から夜遅くまで提灯の明かりが消えなかった。
あいつの事だ、消し忘れて寝てしまったのだろうと様子を見に行くと、
障子越しに机に向かっている姿が映った。

---すっと伸びた背筋、整った鼻筋が美しい影となって映る。
その影を崩してしまうのは勿体なく感じ、障子越しに声をかけた。

「こんな夜遅くまでなにしているんだ。」

一瞬の影が揺れ、囁くようなの声が聞こえる。

「あっ、以蔵...起しちゃった?入って良いよ。」
その言葉に無言で頷き、娘さんの部屋に入った。
揺らぐ提灯の明かりに映し出される。
昼間の表情と違い、少しだけ色気を感じさせた。

「何、書いているんだ?」
俺が書物を覗くと、あいつは気恥ずかしそうに文面を隠した。

「えっと、もう少しで武市さんの誕生日でしょ?私、
お金はないから少しでも日頃の感謝の気持を伝えようと思って・・・。
手紙じゃ失礼かな?」
照れ隠しなのか、こそこそと手を弄っている。

「とりあえず、見せてみろ。」
"あっ"という声と共に隠していた文面を取り上げる。

・・・何と書いてるのか、あまり分からない。
それもそのはずだ、こいつとは生きている時代も違うのだから、
いくら日本とはいえ、お互いの文字が全て読める...という事はない。

眉をしかめて読んでいると、不安そうに顔を覗かせてくる。
「何か、変な事書いてある?」
何となくだが、変な事は書いていないはずだ。伝えたいことも大まかには分かる。

「きっと、大丈夫だろう。だが、
いくら勤勉な先生でもこの字を全て読めるかは分からん。」

"全て読めるか分からん"
きっとその言葉に反応したのだろう。突然"あっ!"と大きな声を出した。

「そっか、この時代と違うんだもんね...、そっかそっか。...はぁ~。やっぱり、物の方が良いかなぁ。」
一人で納得している様子に少し笑いそうになりつつも、何とか堪える。

「いや、気持は通じると思う。だがお前がどうしてもというのなら必要な分だけ渡すが?」

俺が懐から金を出そうとすると、あいつは"いいよいいよ!"と俺の手を引っ込めさせる。
俺も引くに引けず、再び手を持っていく。
すると、"じゃあ、一緒に買いに行こう!"と言いだす。

「馬鹿言うな。俺は既に用意してあるんだ。」

と言うと、少し頬っぺたを膨らませて
"以蔵、先生の事好きだから好み分かるかと思って。"とそっぽを向いた。

俺は"先生の好みが分かる"という言葉にやけに反応してしまい、"なら行く。"と答えてしまった。

その瞬間、あいつの顔は夜の色気めいた表情から昼間の明るい笑顔に変わり、
"有難う以蔵!"と俺の手を握ってきた。

だが、その約束は叶うことがなかった。
その次の日に襲撃されてしまったのだから。

・・・

あいつが一生懸命に書いた字を眺める。
あの時はあまり思わなかったが、きちんと縦書きで読みやすい字だ。
やはり手紙だけで良かったのではないだろうか、俺は一番の方法だと思う。


-土佐藩・武市半平太-

僕の"誕生会"なんて、たかが知れている。取って付けたように何なんだ。
今まで、そんな物は一度も無かったのにだ。
きっと龍馬や中岡が僕を励ます為に決めたのだろう。
そんなもの、必要無い。が、一応顔だけでも出しておこう。
どうせ、特に龍馬なんてすぐに酒が回って大の字になってしまうのだろう。
それに以蔵の、あの口の利き方も気に食わない。一喝すれば、すぐに凋んでしまうだろうから。

部屋に入ると、既に全員揃っていた。
「武市遅かったのう!折角以蔵を遣わせたのに...待ちくたびれた。」
僕は無言で席につくと、中岡が態とらしく咳払いをして乾杯の合図を出した。

「いやー、美味いっスね!
…そういえば武市さん何歳になったんでしたっけ?」

「…そんな物、とうに忘れた。」
実際、己の年なぞ考えている余裕がない時期に忘れてしまった。
大体なら、覚えているはずだが。

「…まぁそんな固くなるな武市。わしらはそんな仲じゃないじゃろう?」

龍馬が肩を組んでくるが、身体がその行動を拒絶する。…思わず腕を除ける。


「…軽々しく触るな。誕生会?今更態とらしい。今までこんな会は無かった。励ましているつもりか?」
今まで気が付いていないふりをしていた、心の隙間にぽかりと空いた傷痕が蘇ってくる。

「…この誕生会は、武市さんの為に姉さんが提案したものっス。だから…。」
中岡がそこまで言い終えたところで、僕は急に吐き気に襲われ雪隠に駆け込んだ。

「…っ、うっ…。」
…何故だろうか。
きっと中岡の言葉の所為ではない。僕が、弱いんだろう。
彼女の名前や話が出てくるだけで、発作のようになってしまう。

…外から、以蔵の足音が聞こえてくる。

「先生っ、大丈夫ですか?」
以蔵の焦った声が聞こえる。
軽く頷くように答えると、暫くの間沈黙し、僕に謝った。

「先生、申し訳ありませんでした。大変な御無礼を致しました。」
…ごつんと以蔵が地面に頭を付ける音が聞こえた。


「もう良い。頭を上げてくれ。」
雪隠を出る。しゃがみこみ、以蔵に目線を合わせる。
気のせいだろうか、以蔵の瞳は濡れているように感じた。

すると以蔵はすっと顔を上げて、
「先生に、お渡ししたい物があります。」と懐から何かを取り出した。

髪結い様のような紐を一つ...と、書物?いや少し厚い文面か。

「俺からはこれです。この文面は...、あいつからです。部屋でお読みになって下さい。」
そう言い、僕に手渡すと"失礼します。"と戻って行った。

以蔵のどこか寂しげな背中を見送りながら、文面の裏を見ると、彼女の名が書いてある。

"***より"...名を見ただけで込み上げてくる想いを抑えつつ、僕は部屋へ戻る。

が、その前に龍馬と中岡に謝らなければ。
先程までの苛立ちが嘘のように心が穏やかだ。
こんなに感情が著しく変化するのは、彼女を失って以来、初めてかもしれない。

居間に行くと、まだ二人は酒を飲んでいた。
「...武市、すまんかった。わしゃ無神経じゃったのう。」
「龍馬さんは悪くないっス。おれが提案したから...。」

「いや、お前達は悪くない。僕が弱いだけだ。すまなかった。」

軽く頭を下げ謝ると、二人は驚いた顔をしてこちらを見ている。
すると、龍馬は柔らかくほほ笑み、僕をまっすぐ見つめた。
「...あん子に似てきたな、武市。」
呟くようにそう言うと、"もう戻れ"と背を向けた。

龍馬の言葉に目元が熱くなるのを感じる。
背中越しの龍馬に"ありがとう。"と伝えると、
僕は居間を後にし、部屋に向かった。

・・・

丁寧な字で"武市さんへ"と書かれたその文面を目で追う。
彼女の、直接伝えられる事の無かった想いが、一文字一文字胸に刺さる。

最後の五行。娘さんは自らの死を予感していたのだろうか。


"もし、私がいなくなったら、消えてしまったら、
あの日掬った出目金の子を見て私を思い出してください。
私は武市さんの傍にいますよ。もしもの時です。
普段、口に出せてはいないけれど、私は武市さんが大好きです。
あの子も私と同じように、武市さんの事が大好きだと思うから。"



肩の傷なんて比較にならない心の痛み。今になって実感出来た。

僕はこんなにも彼女に想われていたんだな。
君を守ることも、未来に帰すことも出来なかった僕を、どうか許してくれ。

涙が、絶え間なく溢れる。
彼女の存在で、僕がどれだけ無力なのか分かり、
弱い人間なのかも理解出来た。
理解、させてくれた。
彼女の様に強い人間がいなければ、きっと、寺田屋の四人は誰一人生き残っていなかったのではないだろうか。

有難う、伝えきれなかった想いを、気持を今伝えよう。

有難う。


-土佐藩・岡田以蔵-

本当は触れない方が良いのだろう。
だが、俺はどうしても先生が気になって部屋の前まで来ていた。

「以蔵、入れ。」先生のいつになく穏やかな声に驚きつつも、俺は直感的に理解する。
この先生の姿も、きっとあいつが作り上げたものなのだろうと。

"失礼します。"と先生の部屋に入ると、月明かりを背に優しく微笑む先生がそこにはある。

「ふっ切れた。」

そう言い、愛おしそうに手紙を抱く先生の姿は、
今まで幾度となく過ごしてきた俺が見てきた先生の笑顔の中で、
一番優しく美しい笑顔だった。まるで、お前がいた日々を連想させた。

俺からも感謝を伝える。本当に有難う。遅くなって、すまない。


娘さんへ。

今、君はどうしていますか。

もう、忙しい時間に追われることなく、ゆっくり出来ているかい。

十七年間の君の人生と、それ以上にある僕の人生の中で君と過ごせた時間は本当に僅かだった。

君の時間を止めてしまったこと。
二度と、元に戻せなくしてしまったこと。

これは僕が一生をかけて償っていかねばならぬ罪だ。
償いきれない、罪の大きさだとも思う。

でも、僕は君が遺してくれたもの、
そして君の存在、生きた証を一生をかけて守ってゆく。

たとえ、僕の命の糸が切れても。
切れても尚、僕は君の傍にいる。

だから、少しだけ待っていてほしい。
君の気持を中途半端にしか知らぬまま、
非常に身勝手だと思う。だが許してほしい。
これが僕の最初で最後の君へのわがままだから。



君が僕に任せてくれた出目金は、
毎日元気にしていて僕が近付くと水面に来てくれる。

だが、いつもどこかで君の面影を探しているみたいだ。
まるで、僕のように。

・・・

君がいるであろう、蒼く美しい空を仰ぐ。
優しく頬に触れる風は、まるで君が僕の問いかけに答えてくれているように感じた。

いつまでも、この瞬間を永遠に。
そう、心に刻み込んだ。

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「武市さんっ!」

陽だまりのような笑顔で僕の名を呼ぶ君を、僕は永遠に忘れない。

愛している、これからも、愛し続ける。
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