-薩摩藩・大久保利通-

私は、部屋の前で立ち尽くした。
“出産”とはこんなにも、こんなにも死に近いものだったのか。
…いや、母親が己の命と引き換えにしてまで生をやるんだ。
考えても、恐らく意味の無いであろう事が私の頭の中を何度も回転している。

「…大久保さん、少し落ち着いたらどうですか。」
ふと声をした方に目をやると、岡田君が涼しそうな顔で立っている。
「岡田君、君にはこの恐怖が分からんだろう…。」
“分かった様な事を言うんじゃない”と続けようとすると、岡田君がその言葉を制した。

「俺には分かります。兄弟が多かったから…何度も母親に立ち会いましたが、
やはりこういう場での男は川に流される子猫のように無力です。」
「……。」
「…それに、今日はあいつが母親になる日。今まで死と隣合わせでこの時代を過ごしてきた、
あいつがやっと生きている事を実感出来る日だ。…そんな新しい門出をするあいつを、ただ信じましょう。」

何だ、やけにこの男は素直だな。
私は“ああ”と頷くと、岡田に一つ釘を刺しておいた。
「…だかな岡田君、人の嫁を名で呼ぶ癖は直した方が身の為だ。」
すると岡田は少し顔を紅くし、“失礼します”と大部屋へ戻ろうとする。

・・・その時、目の前の小娘がいる部屋から聞き慣れない程の悲鳴と、
初めて聞く、赤子の泣き声がした。

・・・

坂本君を始め、来ていた全員が大部屋から飛び出してきた。
「「大久保さんっ!」」
「面白娘!」
高杉君以外の五名が私の名を叫び、
高杉君は、小娘の名を大声で叫ぶ。

「大久保さん、まっこと良かったのう‼」
「姉さん、本当に頑張りましたね!」
「やはり、こういう場での女は強い…。」
「僕が名付け親になりましょうか。」
「大久保さん、おめでとう。」
彼等から沢山の言葉が贈られる中、高杉君は私に手拭いを突き出した。

「大久保さん、それを拭け。あいつに泣き顔なんて見せるな!」
…私が、泣くだと?
ふと自身の頬に手をやると、冷んやりした水滴が指に触れた。

…父親になるというのはこういう事か。

「…高杉君、父親なるというのはこういう事のようだ。覚悟しておけ。」
そう言って高杉君から手拭いを受け取り、
軽く“涙”を拭くと私は小娘の部屋へ入って行く。

---
部屋に入ると助産婦が片付けを終え、
“おめでとう御座います。”と一礼し部屋を出た。

小娘は…愛しそうに赤子を抱いていた。
その笑顔はいつもの様な優しい微笑みであったが、
母親の強さも含んでいた。

「小娘…。」

…どう、接したら良いのだろうか。
悩みつつも名を呼ぶと、小娘は笑って振り返る。

「利通さんっ、元気な…利通さんにそっくりで綺麗な女の子ですよ!」
「…綺麗って。まだ赤子だろうが。」
「…私には分かるんですっ!」
そう言って身体を起こそうとするが、身体に力が入らずにふらついている。
咄嗟に、その細い身体を支える。

「全くお前は…危なっかしい。母親になっても首輪を付けておきたい程だ。」
“赤子に怪我でもあったらどうするつもりだ。”と念を押すと、
小娘は頬を膨らませ“すみません。”と謝る。

本当に母親になったのか?あまりにも普段と変わらない様子の小娘と、
先程の母の顔に不思議な矛盾を感じつつも、小娘の子を慈しむ様な新しい表情に少し驚く。

…まだ、伝えていない言葉があった。

「小娘。」抱き上げたまま、名を呼ぶ。
…随分酷く汗をかいているな。着替えさせなければ。

「…利通さん?」
私を見上げる小娘の瞳は、出会った頃と何も変わっていなかった。
心底、安心した。己が感じていた不安が一瞬にして解かれた。

「…有難う。私と共に過ごす道を選び、子まで私に育んでくれた。本当に、感謝している小娘。」
今まで口にしなかった感情を一気に吐き出す。
ふと気が付けば、小娘はほろほろと涙を流している。
…思わず名を呼ぶ。

「…小娘。」

だが、小娘は私の言葉を遮るように続けた。
「有難う、は私です利通さん。私、貴方が居なければ生きていけなかった。
絶望の淵にいた私の、一本の光の筋は貴方だったから。」

その言葉に、小娘の成長を少し感じた。
何時の間にか、こんなに感情を吐けるようになっていたのだな。
「私もだ。…だか、子の目の前で泣くのは感心出来ん。」
すると小娘は柔らかく微笑んだ。
「それは、利通さんもじゃないですか?」

……何だと?
また、先程の様に頬に手をやると水滴が付く。
「二度目か…。」独り言の様に呟くと同時に、
耳を裂くような大声が響いた。


「姉さん!本当におめでとうございます!!」
「小娘さん、今夜は宴じゃのう!」
「おめでとう、小娘さん。名付けは僕に任せてくれないか。」
「子守なら、いつでも平気だ。」
「お二人ともおめでとう。さて赤子を見せてくれるかな?」
「小娘ー!!無事だったかー!?」

全員が一度に言うもので、とても聞き取れたものではない。


「み、皆...来てくれてたんですね!」
疲れている筈の小娘も笑顔で接する。
そんな小娘の言葉に"勿論じゃ!"と遠慮なく部屋へ入って来る坂本君。
彼に続き、全員が部屋へ入って来る。

私もまともに見ていない赤子の顔を覗きこみ、武市君と桂君はこう言う。
「口元は小娘さんに似ていますね、目元が大久保さん似かもしれない。」
「ああ、確かに。この子は別嬪さんになるのではないかな。」

呆気に取られて動けない私を、小娘が大声で呼ぶ。
「あっ、利通さん、今そっち見て笑いましたよ、この子!」
いつの間にか近くに移動していた岡田君もそれに同意する。

何故だか不安な感情に駆られた私は、自らの赤子の手にそっと触れる。

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・・・!
すると、産まれたばかりの小さな手は私の手を受け入れ、手の平を重ね合った。
こんなにも、命とは温かなものだったのだな。

ふと、思い出す。逢瀬の時に繋いだ小娘の手を。
柔らかく温かいその手は、小娘の椛のような手にとても似ていた。

赤子の手を見つめつつ、己の薬指にはめられた"婚約指輪"なるものを見つめる。
これが"愛の証"とは...未来もなかなか捨てたものでは無いのかもしれんな。

「この子は、ちゃんとお父さんが利通さんだって分かっていますよ。
...それに、私もう名前決めてあるんです。」
小娘の言葉に、かの有名な志士達がざわめき出す。
...それほど、気になるのだろうか。
「「名は...「なんだ じゃ」」
坂本君と私の声が重なると、小娘は笑いながら答える。

「この子の名前は...---です。」

「おお...何と良い名じゃ。」
「僕の役目は必要ありませんでしたね。」
「先生...。」
少し切なそうに言う武市君を岡田君は心配そうに見つめる。
随分、一方的だな...。

ふと小娘に目をやると、不安そうな顔で私を見つめている。

「利通さん...この子の名前、変でしたか?」
何も言わぬ私を不安に思ったのだろう。
だが、私にとって"何も言わない"というのは、
この上なく最上で文句が無いという意味なのだが...。

「...とても良い名だと思うぞ。私と小娘の子だ、将来有望だろうからな。」
そして坂本君を軽く睨み、
「坂本君の様な破廉恥な男どもから守ってやらねばならぬ。」と言うと、坂本君の猛反撃が始まった。

「何じゃと!?いくら別嬪さんでも二人の子に手を出すつもりは無い!!」
「いや、大久保さんの言う事も一理ある。僕も守ってやろう。」
「武市さん、それじゃあ龍馬さんと変わらないっス...。」
中岡君の適当な言い返しに少し笑いそうになりつつ、赤子の顔を見つめる。

「小娘、お前は先程"利通さんに似て綺麗"と言ったな。」
「? 言いましたけど...。」
「こいつは...お前に似て可憐だと思うが?」
・・・
「「!!」」
全員が驚いた顔で私を見る。何だ、一体。

「いやぁ~...大久保さんも意外と娘さんと似ちょるな。」
「ああ、無自覚な所が...だな。」
"無自覚"...だと?
小娘の横でどしりと座っていた高杉君に言われると、かなり腹が立つ。
そんな私の殺気に気が付いたのか、小娘は"まぁまぁ..."と宥める。

「さて、そろそろ帰ってくれないか。小娘も出産後間も無く疲労している。...少しは察せぬか?」
私のその言葉に辺りの空気が凍ったのが分かる。

「そうだな、そろそろお暇しよう。」最初に言葉を発したのは桂君。
彼の言葉で少し氷が溶けたかのように空気が変わってゆく。
「では小娘さん、お大事に。また来ます。」
「面白娘、元気でなー!!いつでも子守るからな!」
「じゃあ姉さん、お大事に...大久保さんも。」
続々と引き上げていく彼等を確認し、私と小娘は軽い溜息をついた。

「疲れただろう、小娘。ゆっくり休め。」
「はい。でも…。」小娘が言葉を濁す。
「何だ、どうかしたのか…」
「あの、実は…川の字で寝たいんです!」

…川の字か。

「何だ、川の字くらい何時でも構わない。それに、今後は毎夜川の字になるだろう。
…特別な晩以外はな。」
私の言葉に小娘は元気良く頷くが、最後の言葉の意味を後から理解し、顔を紅潮させた。
まあ、今の小娘には少し腰が砕けそうな話だが。

布団を用意し、横になると小娘は赤子を眺める。
「…本当に可愛い。やっぱり利通さんにそっくり。」
「…皺くちゃの赤子に似ていると言われるのは、あまり喜べないな。」
「えー、なんで⁉可愛いじゃないですか。」
「あまり喚くな。赤子が起きる。…それに誰か可愛くないと言った?」
「…。あの、“赤子”じゃなくて名前で呼んであげてください!」
「…まだ早いだろう、こんなに小さな子が理解出来る訳がなかろうに。」その言葉に小娘は珍しく反撃した。
「何言ってるんですか。…---!ほら、握り返してくれましたよ?」
「…ッ。呼べば良いのだろう、呼べば。」
赤子の…向こう側にいる小娘は微笑みながら期待した目で私を見ている。

「…---。」反応は無いだろうが、一応手を差し出してみる。

すると先程握ったように、また握り返してきた。
「…!」 「ほらね、やっぱり分かるんですよ。」
言い返せない私は、子の手を握ったまま背を向ける。
「…もう、寝るぞ。明日から大変になる。…小さな娘が、一人増えたのだからな。」
「ふふっ、そうですね…。」そう言うと小娘は静かに眠りについた。
規則正しい小娘二人の寝息に、私も眠りの世界へと誘われる。

…いつかの逢瀬で小娘が言った事を思い出す。

記念日だから、閉じ込めておきたいんです。

ならば私にとっての“記念日“は今日だ。
今日という大切な記憶が薄れないよう、私はそっと目を閉じた。

・・・
・・・・
・・・・・

...あれから、幾つかの年月が経ち、子は四歳になった。

「父上ー!」
私の姿を見つけ、一目散に走って来るその姿は、
まるで想い合ったばかりの小娘を映し出したよう。

武市君の予想通り、少し垂れた目元は私似、
通った鼻筋と柔らかな口元は小娘に似ている。
葡萄色の繊細な髪の毛と、すっと伸びた背筋が幼ながらも周囲を釘付けにする。

「あっ、ずるい...。利通さん、おかえりなさい。」

「ああ、ただいま。」
子供にまで焼餅を焼く小娘に苦笑する私を他所に、
"小娘二人"は台所へと向かった。

「ねえ、今日は何食べたいかお父上に聞いてきてよ。」
「うん、母上!」台所から、私の元へ舞い戻って来た。
そんな"小さな娘"を私は優しく受け止め、"どうしたのだ"と問う。
「父上、今日はなにがたべたい?」
「今日か...そうだな"母上"、と伝えてくれ。」
「母上ー?うん、分かった!」
元気良く返事をすると今度は小娘の元へ一目散に駆けだした。

「父上、何が良いって...?」
すると、そっと小娘の耳元で言う。
「母上が食べたいってー!父上って面白いね!」

一瞬で意味を理解し、顔を紅潮させる小娘を私は口角を上げ眺める。

「ちょっ、利通さん!この子に変な事吹きこまないでくださいよ!」
「何だ、何もおかしな事は言っていないだろう?ましてやこの年齢では何も分かるまい。」
そう言うと私は得意気に子を抱き上げる。
・・・抱きあげられた子は自身も薄ら顔を紅潮させ私を見上げている。
あまりにも無垢で純粋過ぎる子は、逆に罪にであるな。

「…お前のその顔は、強請る時の母上にそっくりだな。」
子を他所に高らかに笑う私を、顔を紅色に染めた小娘と二人、顔を見合わせ微笑んだ。
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「…今宵は夕餉の後、私と母上は少し出る。半次郎と待っていられるな?」
思いも寄らぬ私の言葉に思わず声をあげる小娘を他所に、私は微笑みかける。
…私が笑う時の気迫には、こいつでさえも慄いてしまうようだ。

「…はい、父上。」
少し残念そうに頭を垂らす子を小娘は抱きしめたい衝動に駆られたようだが、
既に準備を始めた私を見て、軽くあやすと急いで支度をした。

・・・

「…利通さん?」
月だけが、暗い小道を照らしてくれる。
あまり通った事の無い道だったが、どこか、小娘にとって見覚えのある道のようだ。

何も話さない私に不安を覚え、小娘は私の名をもう一度呼ぶ。

「…何、もうすぐだ。」
「えっ?」
何の事だか分からない小娘は少し呆気に取られている。
少し先まで歩くと、小娘は何かに気付き始める。
…この小高い丘、ふと見上げた空の広さ。
そうだ、ここは。

私は、足を止めた。

「小娘、覚えているか?この場所、この景色を…。」
「利通さんっ、ここ…っ!」
声の震える小娘の肩をそっと抱き寄せ、私は続ける。
「懐かしい…だろう。あれは、もう何年も前であったな。」
「ッ…。」
静かに涙を流す小娘の目元をそっと拭い、
私は感情のままに小娘に微笑む。

「…お前はあの日、“今日は記念日になる”と言ったな。
私も、あの日以来この日と子が誕生した日が“記念日”だ。」
「……。」
「そして、今日は何日だ?」
私はその質問に小娘は、はっと気付き呟く様に日付を答える。

「ああ、そうだ。…あの日から、もう五年だ。信じられるか、小娘。」
「…本当に、早い。」
「この五年間、お前は片時も離れる事無く私の傍に居てくれた。本当に、感謝している…。」
「…私も…。」
「少し、慌ただしい五年だったな…。」
「はい…。」
「これからの季節は、もう少しゆっくり歩みたいものだが…。そうはいかないかもしれん。」
「……。」
「…お前も分かるように、私達は激動の時代を生きている。
何時、何が起きても分からない状況だ。…それでも、お前は変わらず傍にいてくれるか?」

私の最後の言葉に、小娘は真珠玉のように大粒の涙を流しながら答える。

「…当たり前です。私、もうとっくに腹括ってますから…。
前も言いましたよね、私、利通さんが思っているよりも子供じゃありませんって…。」
「…そうだったな。では、逢瀬の続きで存分に発揮してもらおうではないか…こうだったか。」
二人は記憶を弄るように懐かしい言葉を繋いでゆく。

「…受けて立ちますよ。」
あの時、あの瞬間と変わらぬ笑顔で笑う小娘に、私は深く口付けた。

「やはり、幾度年を追っても唇の柔らかさは変わらないな。」
そういっていつも通りに微笑む私に、小娘は身を預ける。
そして、そのまま夢の中へと堕ちていった。

小娘を背負う帰り道、ふと空を見上げると満天の星空と暖かな月明かりが私達を迎入れた。
もう、子は寝付いてしまっただろう。

少し罪悪感を感じながらも確かに今、背から伝わっている柔らかな温もりと、
小さな命をこれからも繋いでゆく…と私は天に誓う。

流れゆく二つの流星に、それぞれへの想いを馳せた。

…愛している。

直接は届かないその声を、確かに私は呟いた。

・・・

今宵もまた、この世界の何処かで
想い人達は愛を囁き、夜中に灯る提灯の灯りは、
重なる二つの影を美しく照らし出す。

朝には消えてしまう儚いその光は、
共に生きると誓った二人の夢の徴となり
いつまでも褪せることなく輝き続けるのであろう…
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